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2018/09/11
イベントレポート

「『ガラスのうさぎ』上映会&空襲のお話」~夏休み親子平和企画~

8月18日、「『ガラスのうさぎ』上映会&空襲のお話」~夏休み親子平和企画~を開催し、組合員14名(うち小学生2名)、理事・職員3名が参加しました。

みて、きいて、考える

戦後73年が経ち、空襲の実体験を聴く機会も少なくなっています。~夏休みに親子で平和について考える~をテーマに掲げ、『ガラスのうさぎ』上映と杉山喜一氏(平塚の空襲と戦災を記録する会所属)による空襲体験談が行われました。

『ガラスのうさぎ』(原作:高木敏子)は1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲における作者自身の経験を元に執筆されました。太平洋戦争末期、主人公敏子は12歳。敗戦色が濃くなり誰もが生きることに必死だった時代、家族とともに懸命に生きていました。そんななか空襲によって母と2人の妹たちを同時に失い、さらに疎開の途中で米軍機の機銃掃射を受けた父の火葬手続きをしなければいけませんでした。12歳でひとりぼっちになってしまった敏子が、絶望感のなか見出した生きる理由が描かれています。

参加者は小学3年生からおとなまで

13歳で目の当たりにした空襲のお話

映画上映後、『ガラスのうさぎ』主人公敏子と同世代である杉山さんから、平塚空襲(※1)についてお話をうかがいました。杉山さんによると、平塚は当時のアメリカ軍空襲爆撃目標180カ所のうち120番目に対象とされた都市。平塚がなぜ空襲の爆撃目標となったのか。それは軍需工場が多く存在していたからだそうです。

空襲開始当初は上空7000m~9000mからの爆撃だったのが、昭和20年3月以降には命中度を高めるために高度を2500mまで下げたそうです。杉山さんは平塚空襲の前年に父親を亡くし、当時は母と子ども6人で生活していました。きょうだいは姉と弟と妹、13歳の杉山さんは長男。平塚空襲は7月16日夜、警戒警報は出されずいきなり空襲警報が鳴りました。そして照明弾が落とされた町は昼間のように明るかったそうです。
逃れる途中、姉は骨折。おでこに焼夷弾の破片があたり火だるまになった妹を救おうと杉山さんと弟は着ていたシャツで必死に消火しました。東の空が明るくなった頃、意識がなく全身やけどを負った妹をおんぶして軍医のいる場所へ向かいます。そこで、軍医からは手に負えないと言われ、体中包帯で巻かれた妹をリヤカーに載せて国道1号線を西に向かい病院を探す途中、妹さんは息絶えてしまいました。

過酷な体験をていねいに語ってくださいました

杉山さんの自宅は建物が残っていたため、遺体を自宅へ連れて帰ることができましたが、その日は雨が降り、被災した見ず知らずの人たちが妹の遺体のそばで雨宿りをしていたそうです。『ガラスのうさぎ』の敏子だけでなく、杉山さんにとっても戦争中の生活は大変であったがそれ以降も大変厳しい生活が続いた、と当時のつらく過酷な状況をていねいにお話しいただきました。

(※1)平塚空襲
平塚市は1945年(昭和20年)7月16日午後11時32分から17日の午前1時12分までの間にB29爆撃機132機により空襲 を受けました。B29から投弾されたしょうい弾は、全部で44万7,716本。一晩で受けた数としては、全国で一、二を争う数になり、その結果、死者328人、重軽傷者268人、り災戸数7,678戸にのぼりました。 【平塚市HPより】

空襲体験を語り継ぐこと

お話をうかがったあと、参加者から「空襲体験を語り継ごうと思ったきっかけはなんですか?」との質問を受け、現在86歳の杉山さんは「自分が元気なうちに話をしておかないといけない。戦争は絶対にしてはいけない」と力強く訴えていました。
『ガラスのうさぎ』の主人公敏子もまた、絶望感の中で「絶対に戦争をしてはいけない」「平和な世の中をつくりたい」という強い思いが生きる力となった、と杉山さんとまったく同じ思いを抱いています。そして、映画の最後に登場する新憲法には「戦争の放棄」が記述されており、杉山さんや敏子にとっても救いとなったそうです。参加された皆さんにとっては、この思いを受け止め、平和をつないでいく大切さを感じる時間となったのではないでしょうか。

平和を語り継ぐ杉山喜一さん

当組合では、今後も戦争の悲惨さや平和の尊さを学び、戦争・紛争・貧困のない世界をめざして、組合員やさまざまな団体と連携した取り組みを行っていきます。

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